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第2次世界大戦を実現させたスターリン ③ [共産主義]

 スターリンの対日工作のうち、日本が国家戦略を南進に切り換えた決定的な事件がノモンハン事件です。

 これは、1939年満州国とソ連の支配下にあったモンゴル国境で起きたソ連・モンゴル連合軍と日本軍との紛争です。この時の日本側の師団長であった小松原道太郎中将は、ロシア語のエキスパートであり、以前、情報将校として在ソ日本大使館に勤務していました。

 彼は大使館付き駐在武官として勤務していた時にソ連のハニートラップにかかり、それ以降、ソ連に脅され続けていました。同時期に駐在武官として勤務していた小柳大佐も同様にハニートラップにかかったものの、自らの不明を恥じて、官舎で割腹自殺しています。自殺の背景にはスパイ工作があったことが、朝日新聞でも報道されています。

 インディアナ大学の黒宮広昭教授によると、支那事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と満州国には2000人の明らかなスパイと5万人のエージェントがいると日本政府は見ていました。ヴェノナ文書で明らかになった米国での状況からみて、この数字は妥当なものです。

 小松原は何事もなかったかの様に昇進を重ね、1932年から1934年まで、ハルビンの特務機関長を務めました。この期間、ハルビンではソ連への重要情報漏えいが相次ぎました。公開された旧ソ連機密文書によって、ソ連軍が一定の期間だけ、日本、中国及び満州に関する、大量の政治・軍事情報を得ていたことが分かっています。つまり、小松原が特務機関長であった時期と重なっているのです。

 ノモンハン事件から2年後の1941年の早い時期に、スターリンは、ノモンハンのソ連側司令官ゲオルギー・ジューコフに、なぜ13か国語を操る小松原を殺害したのかと尋ねます。ジューコフは、もし語学に堪能なことを知っていれば、命を救ったと答えています。

 ノモンハン事件後、小松原は帰国します。そして、1940年10月6日、不可解な状況の下、「病死」するのです。用済みのソ連スパイが、事故や病死に見せかけて殺害された例は多数あります。ただ、状況証拠は限りなくクロですが、小松原がソ連のエージェントとして、ノモンハンで活動していたことを示す証拠はまだ発見されていません。

 あなたは、そんなことはあり得ないと思いますか。つづく。


第2次世界大戦を実現させたスターリン ② [共産主義]

 先日紹介したスターリンの対日工作をさらに詳しく見ていきます。

 前述の通り、ソ連はドイツと日本が同時にソ連へ侵攻してくることを恐れていました。従って、日本に対しては、①国民党との戦争を泥沼化させてソ連へ目が向かわないようにする、②ソ連の赤軍が強いことを知らしめて対ソ恐怖症を起こさせる、③インドシナからインドへかけての英仏植民地、石油のあるオランダ領インドネシア方面へ侵攻することが得策であることを、政権中枢へ吹き込むこと、などを画策していきます。

 1937年の8月の盧溝橋事件発生の1ヶ月後には、ソ連は国民党の中華民国と不可侵条約を結びます。そして、これに基づいて大規模な軍事援助を国民党に対して行います。もちろん、日本との戦争を念頭に置いての事ですね。更に、蒋介石に対しては、ドイツや米国からも武器を調達する必要性を説きます。なぜでしょうか?

 なぜなら、シナ大陸の北部は日本軍が優勢であり、逆に、南部はがら空きだったからです。つまり、蒋介石が米国やドイツから武器を輸入する際は、南部から持ち込むしかないと言う事です。蒋介石に米国やドイツとの連携を説得するのと同時に、ソ連のエージェントである尾崎秀美らを使って、日本政府に対しては、南部を攻略した方が日本の為になると説得工作を行ないます。蒋介石がドイツや米国から武器を輸入する所謂「援蒋ルート」をつぶさない限り、日本は国民党との泥沼の戦争に巻き込まれると言う主張を日本の政権中枢、近衛文麿らに吹き込むわけです。

 日本が南進政策に切り換えれば、ソ連が侵略される可能性が低くなります。分るでしょうか?これが自国を守るための世界標準の安全保障の考え方であり、何百年も前から当たり前の考え方だと言う事です。世界が常に権謀術数で動いてきたこと。そして、今もそうであることを、何となくわかりませんか。

 あなたはまだ、そんなことはあり得ないと思いますか。つづく。


第2次世界大戦を実現させたスターリン [共産主義]

 先日紹介した1920年のレーニンの演説で述べられた共産主義が全世界を制覇するまでの「基本準則」は、スターリンの手によって現実のものとなります。少なくとも第2次世界大戦勃発までは。

 レーニンの演説を読むと、当時の列強が世界のあちこちで利権や覇権争いをしていたこと、少なくとも大国の指導者は世界情勢をどのように見ていたのかが非常によくわかります。憲法9条のおかげで日本が戦争にまきこまれなかったなどと言う主張は、間抜けのたわごとにすぎない事がよくわかります。日本が他の国からちょっかい出されなかったのは、日本が世界覇権国の米国の属国だったからにすぎません。

 スターリンがレーニンの後継者の地位について以来、ソ連の国力や軍事力強化に注力します。当時の共産主義者たちは、世界中の資本主義国に共産主義政権を成立させ、世界共産主義革命を実現することを最終目標にしていました。しかし、当時のソ連の軍事力は、それを一気に成し遂げるには弱過ぎたのです。従って、国力を蓄えるために、他の資本主義国から攻められることを回避し、資本主義国同士を戦争させ、互いに弱体化を図り、両者が弱ったところで一撃を加え、叩き潰すと言う戦略を取ったわけです。

 具体的には、レーニンが演説で触れていた日本と米国、そしてドイツと英仏です。実際、スターリンはドイツとも日本とも不可侵条約を締結しています。日本とドイツが手を組んで、ソ連を東西から同時に挟撃すればソ連は崩壊します。そうならないように先に手を打ったわけです。更に、ドイツと英仏が敵対するようしむけ、日本は中華民国の国民党との戦争から逃れられないように工作します。

 ドイツへの工作は何でしょうか。スターリンは1939年にドイツと不可侵条約を結びます。その条約の中には、秘密事項として、両国がポーランドを分割して占領することが決められていたのです。独ソにとって、ポーランドは互いに防波堤、直接攻められないようにする緩衝帯の役目ですね。英仏はドイツのポーランド侵攻をきっかけにドイツに宣戦布告します。そうなる事は当然ドイツは知っていた上で、ソ連と密約をして、東の備えにしたわけです。こうして欧州での第2次世界大戦がはじまります。

 日本に対しては何をしたのでしょうか。当時のシナ大陸は、地方軍閥が群居する内乱状態でした。蒋介石の国民党は中華民国を作っていましたが、それは南京周辺の地域を支配する一地方の勢力にすぎません。北部は張作霖の軍閥が支配する形ですが、軍閥そのものが暴力団のようなもので、治安などありません。これが日本が条約に基づいて軍を派遣し、日本人居住者らの安全を図ろうとした理由の一つです。更に、新興勢力の毛沢東の共産党が出てきて、内乱をさらに混乱に陥れます。

 スターリンは毛沢東の共産党に軍事援助を行い、国民党と日本との戦争を泥沼化させていきます。盧溝橋事件では、共産党の工作員が、国民党と日本軍両方に射撃を行い、両軍が戦闘状態に陥ります。また、西安事件では蒋介石を張学良に監禁させ、その後の国共合作方針を蒋介石に呑ませます。これで、国民党と日本軍は泥沼の戦争状態に突入します。共産党はその間に軍事力を蓄え、両者が弱った時に最後の一撃を与える準備を行います。

 でも、以上のようなことは、これまでも知られていたことです。しかし、米ソ冷戦終結後、ヴェノナ文書が米国CIA,FBIそしてNSAによって公開され、ソ連のエージェントやスパイが日本や米国の中枢にまで浸透していたことが明らかになります。その数、数百人規模であり、両国の政策決定に重要な役割を果たしていたことが判明しています。現在、この公開文書はNSAのホームページで誰でも読むことができます。

 そんなことはあり得ないと思いますか。つづく。

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